褒められたい。称賛を浴びたい。認められたい。
レベルの差こそあれ、こうした感覚は誰もがココロの何処かにもっている基本的な欲求の一つで、アメリカの心理学者であるマズローが提唱した、通称「欲求段階説」で有名です。
超絶ざっくりいうと、↓の図に示した5つの段階があって、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生まれる、というもの。
それぞれの欲求は、こんな感じ。
Stage1.生理的欲求 (physiological need)
食べたい、飲みたい、寝たいなど
Stage2.安全の欲求 (safety need)
風雨から逃れたい、健康でいたいなど
Stage3.所属と愛の欲求 (social need/love and belonging)
集団に所属したい、仲間が欲しいなど
Stage4.承認の欲求 (esteem)
他者から認められたい、尊敬されたいなど
Stage5.自己実現の欲求 (self actualization)
自分の能力を発揮して、社会で活躍をしたいなど
専門家の見地からは、けっこう議論の余地があるされているよようですが、心理学の教科書なんかには、ほぼ必ずと言ってもいいほど頻出する有名なやつですねー。
ムダにかっちょええ感じに作っちゃいましたが、↑の図みたいなやつは、見たことがあると思います。
誤解されがちなのですが、何も下位ステージの欲求が完全に満たされないと上位の欲求が生まれない、というワケではなく、安全の欲求が充足されていなくても、所属と愛の欲求は生まれる、といった状態はごく普通です。
承認の欲求と、どう付き合うか?
この5段階の中でも、ステップ4の承認の欲求は、SNS時代の人間は特にこの欲求が強いと言われてます。
この辺の病理については、↓の当たりがよく解説されています。
上記の本以外にも、さまざまな書籍がありますが、どれもだいたい同じような対処法が書いてあります。
いわく他人の評価を軸にするのではなく、自分で自分を評価するようにしようとか、自分に自信を持とうなんてことが書いてあるのですが、まぁ無理ゲーです。
少なくとも、褒められたい病に囚われている人には、こうしたアドバイスは不向きです。
私は、基本的に他人からの評価には興味があまりないので、こうした承認の欲求なんてものと無縁で生きているんですが、先日Twitterで
どこからその精神性を身に付けたのかが気になります笑
— ひよすけ@ゆるふわPG部 (@piyoccoavenir) May 2, 2018
と、聞かれてなんとなく自分の過去を振り返ってみましたが、ああそういえば、と思い当たったことがありました。
信頼の崩壊から、自己の確立へ
中学生のとき(30年以上前だw)に、濡れ衣で学校の教師に鼻血が出るまでぶん殴られたことがあるんですけど、その時にその教師からお前は劣等感の塊だという趣旨な感じのことを言われたのですが、言われてみれば確かに当時はどちらかというと優等生(自称)な感じで、先生の顔色やら評価を気にしまくるタイプのビビリな人間でした。
評価軸は自分の中にはなく、すべてテストであったり先生からのお褒めの言葉、つまりは他者の評価に従属するだけの人間。つまりは褒められたい病にドはまりしてたワケです。
まぁ、中学生だからしゃーないんですがw
今の自分を知る人たちは、誰も信じないでしょーけど笑
純真な中学生wだった当時の自分にとっては、従来の価値感を全否定される、すげぇ事件です。
なんせ自分の評価軸を預けていた、つまりは信頼する相手から、自分の存在を全否定されたんですから。やってもいないことをやったことにされ、ぶん殴られて鼻血を流しながら反省文を書かせられた。今となっては大したことじゃありませんけど、思い起こせば普通にひでぇ話です。
ここで、純真な中学生にありがちな通常の反応としては、さらに従属を深めて相手の信頼を勝ち取る方向に行くところなんでしょううけど、自分の場合はそうなりませんでした。
先生なんて頼ってもなんも意味はない。自立するしかねーじゃん!
と、自分の中の価値基準を転換したのです。
カケラも納得できずに、微塵もやってもいない濡れ衣を着せられたら、とてもじゃないけどマトモじゃいられない。
あんま意識してはいませんでしたが、たぶん、これが大きなターニングポイントだったのかなー、なんて思います。
ゼロからイチへ、そして自己超越へ
たぶん、この件がなくても自分は最終的にこうなっただろう、とは思いますが、転換を早める契機になったことは事実でしょう。
他人の目とか、評価なんかを気にすることなく、自分のが楽しいと思うことをやりまくることで、気がついたら褒められたい病からは解放されていた気がします。
もちろん一朝一夕に転換できたわけではなく、なにもないゼロの自分に小さい成功をたくさん積み重ねたうえで、価値基準の転換ができました。
何もなしに、いきなり価値基準を転換なんて、できるはずはありません。必要なのは、思索ではなく行動です。
ビジネスの上だけでも、いろんな事業を手がけたり、さまざまなプロジェクトを成功に導くことなんかをさんざんやらかしてきました。
やるべきことを、しっかりとやりさえすれば、結果は必ず付いてくる。
努力の方向性さえ間違わなければ、誰でも成功するのは簡単です。
評価軸を他者に依存する生き方っていうのは、正直なところ健全とは言えません。
何しろそれは、自分の人生を生きていない、他人の人生を生きるに等しい行為なのですから。
自分がおもしろい、楽しいと思うことに注力するのって、最高に充実した生き方の一つです。
自分だけでやるのも楽しいですけど、おもしろいことをやろうとしてる人を手伝ったり、ちょっと楽しそうなアイディアを持ってる人を助けて超やべぇことに発展させたりするのも、すげぇ楽しいです。
マズローは晩年、5段階のさらに上位に自己超越 (Self-transcendence)という第6段階を提唱しています。
これは、ざっくり言うと利他性、とでも言うべきもので、他者や自己を超えた存在に向けて奉仕をすることを指すものとされ、社会全体を面白くしたい、みんなでもっと楽しいことをしたい、といった思いは、ここに行き着くものと考えられます。
誤解を恐れずに言えば、見返りを求める taker ではなく、ただひたすら与える側になる giver になることは、マズローの欲求段階説の最終型、ってことですね。
自分がおもしろい生き方こそが最強!
思い起こせば、今でも誰よりも行動しまくっていますが、近ごろは誰かにガンガンおもしろい生き方をさせることに人生のリソースを注力しまくっています。
そんな思いの一環として、自由な生き方をできる人を増やすプロジェクトをやっていますが、他人の目なんか気にしないで、自分が楽しいと感じることができる生き方さえしていれば、褒められたい病からは、割と軽く開放されます。
自分のやりたいこと、野望、夢、呼び方はなんでも良いけど、これらの情熱を伴う感情に対して、最強に誠実に生きていくことは、めちゃ大事です。
内なる自分の声に忠実に生きることは、Stage1.生理的欲求に応えることにも等しい行為と言えます。
こうした感情は、抑えることが難しいほどに強いものであり、最大限に叶えないと自分が自分でなくなっちゃいます。
おもしろいと感じること、やべぇと感じる心には、忠実に生きなくてはなりません。
それは自分ではない、誰かの人生を生きることに他ならないのですから。
さぁ、未来をはじめよう。
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